渋沢栄一のふるさとから vol.2

栄一翁の時代の茶の湯

栄一翁の生涯については、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」をご覧になった方はよくご存じでしょう。また、同放送を機に栄一翁に関する多くの出版物も世に出回るようになりました。

私が茶の湯を楽しむものとして、ここに書きたいと思ったのは「あの時代に多くの実業家がいわゆる『茶数寄』(ちゃすき)として、茶の湯にまつわる道具や建築物または出版物を後世に残しているのに、栄一翁にはそのようなものがない。なぜだろう」という疑問から端を発しています。

栄一翁が生まれた1840(天保11年)から没した1931(昭和6年)までに活躍した実業家であり『茶数寄』でもある人々は、高橋義雄、増田孝、原三渓、井上馨、根津嘉一郎…多くを数えることができます。また、これらの人々は栄一翁と何らかの接点がある方たちばかりです。

今、私の手元に熊倉功夫氏の著作「近代数寄者の茶の湯」(河原書店)があります。氏はこの中に栄一翁を含む明治の実業家たちの面白いエピソードを記し、近代数寄者の果たした役割をまとめています。ほんの一部を引用させていただきます。

以下引用 (引用元は文末*に記す)***********

「明治30年(1897年)ごろのことらしいが、益田孝は渋沢栄一に呼ばれて浜町の料亭にいた。渋沢栄一が石川県の金沢を視察して帰ってきたので、その視察談をしたいと、福地源一郎や小室信夫などと一緒に益田孝を料亭に呼んだのである。渋沢が金沢を評して、彼の地は非常に茶の湯が盛んで、渋沢が行っても道具を並べて見せるし、茶を出すし、とても悠長なことで話にならない。まずあの茶の湯の風習を打ちこわさなければならぬと力説する。・・・中略
日本の近代化が渋沢栄一のいうように、旧態依然たる金沢の茶の湯を打ちこわすだけだったら、ずいぶん違ったコースを日本は歩むことになっただろう。ところが現実には渋沢の言うようにはならなかった。益田孝のように、現代経営論を一方の耳に聞きながら、その一方では、三百年の歴史ある釜を愛玩しながら茶の湯談にふけっている。明治維新とそれに続く文明開化が否定してきた江戸の遊芸は、近代経営者の感情をしっかりととらえていたのである。・・・中略・・明治の近代化は、西欧的近代化と伝統的価値観の両者にしっかりと両足をおろしていたのである。」

引用ここまで**************

私はこのエピソードを大変面白く拝読し、納得もしました。実際、栄一翁は自らの著作「論語と算盤」の中で、茶の湯について「お茶の流派も流儀といった憾み(うらみ=残念に思うこと)がある。民衆に向かうべきところを教えぬ。これはなんとかせねば」と記しています。これは同著作において、栄一翁が儒教を基本に「趣味」あるいは「宗教」について独自の理論を展開する中での一文なので、このように切り取ってしまうときちんとした理解を得られないかもしれません。栄一翁はあくまでも自分は言行の規矩(げんこうのきく=言行の規範)として儒教を信仰しているが、民衆には宗教が必要だ。その宗教が形式化しているのは嘆かわしい。茶の湯も同様に、しきたりや旧習にとらわれず、日々新たな改革が必要なのではないか、というようなことを言っています。

栄一翁の茶

栄一翁も実際、茶の湯を行っていました。東京都北区王子の飛鳥山には栄一翁の建てた茶室の跡地が保存されています。茶室の銘は「無心庵」。 設計は益田克徳(益田孝の弟)と柏木貨一郎であったそうです。
1899年(明治32)に茶室「無心庵」は落成しましたが、残念ながら第二次大戦で焼失しました。

では栄一翁はどのような茶を行ったのでしょうか、次回へと続きます。

焼失前の無心庵
焼失前の無心庵待合
無心庵跡地に残る灯篭

 

※ 引用 熊倉功夫 「近代数寄者の茶の湯」 (河原書店)

渋沢栄一のふるさとから vol1

私と「渋沢栄一」(なんの関係もありませんが)

2024年からの新しい一万円札の顔となる「渋沢栄一」(以下、「栄一翁」と呼ばせていただきます)。2021年にはNHK大河ドラマも栄一翁を主人公とした「青天を衝け」を上映。以降、私が住む深谷市はメディアで取り上げられる回数も増え、一気に認知度が上がりました。これまでは栄一翁がどのような人物だったか、何をした人かを知る人はあまり多くはなかったのではないでしょうか。ましてや栄一翁と深谷市との関係など、ほとんどの人は知る機会がなかったと思います。

深谷市で生まれ育った私にとって栄一翁は身近な存在でした。一例をあげると、職場だった建物の一室には栄一翁が揮毫(きごう)した「士魂商才」(しこんしょうさい)の扁額が掛けられていました。いまやベストセラーにも名を連ねる栄一翁の著書「論語と算盤」の内容を一行に集約した言葉といえます。

また、少し遡りますが、昭和60年(1985年)4月1日に栄一翁の親族が、生家だった建物を「渋沢国際学園」として、広く海外からの留学生を受け入れる施設として一般に開放しました。同学校法人が解散する平成12年(2000年)までに、47か国679人の留学生を受け入れたそうです。
私は、この施設の一部で行われていた社会人向けの英会話教室に3年以上通っていました。講師はアメリカ人女性でした。集まってくる人たちも様々な社会に属していて、その講師が「This is thinking design school!」(ここは思考をデザインする教室だわ)というほど、英語の勉強を通じて、多種多様な考えを学ぶ場となりました。

深谷にある「渋沢栄一」関連施設等

ここで、現在深谷市内にある栄一翁に関連した施設をご案内しましょう。
中の家(なかんち):栄一翁の生家は現在「中の家(なかんち)」と呼ばれ、埼玉県指定旧跡として深谷市が管理運営を行っています。ここには和装で座る栄一翁のアンドロイドがいます。


現在は耐震補強工事中です。今朝(2022.8.30)の読売新聞埼玉版によれば、工事費用の一部を賄うためクラウドファンディングを行っているそうです。詳しくは下に書かれた「渋沢栄一記念館」におたずねいただくのがよいようです。

渋沢栄一記念館:栄一翁に関する様々な写真や資料が展示されています。また、ここには洋装の栄一翁のアンドロイドがいて、「論語と算盤」について講義をしています。私も講義を聴かせていただきました。楽しかったです。

 

誠之堂・清風亭:国指定重要文化財となっています。もともとは東京都世田谷区にあった第一銀行の保養施設を深谷市起会地内に移築したものです。日本の近代建築史上、大正時代を代表する建物として高い評価を受けているそうです。様々な事情で取り壊される予定だったものを深谷市が平成11年に復元し建築したものです。

その他、関連施設を紹介した地図を「渋沢栄一記念館」の地図をお借りしてここに紹介いたします。

渋沢栄一と茶の湯

さて、私が書きたいのは、栄一翁と茶の湯の関係です。現在のところ、栄一翁と茶の湯の関りを知る手掛かりは多くありません。次回以降、少しずつ資料を確認し、自らの足で可能な限りのことを調べて綴っていきたいと思います。

なぜ茶道、なぜ茶室 その4 茶室の建築

ここで改めて、茶室とは

茶室は「数寄屋」(すきや)とも呼ばれます(牛丼店ではありません)。「好き家」(すきや)あるいは「空き家」(すきや あきや ではありません)と書くともいわれています。岡倉天心は著書「The Book of Tea」(「茶の本」)で、東洋的な哲学を茶の湯の成り立ちを通して西欧人に紹介していますが、その中で茶室についても詳しく紹介しています。ここで改めてその内容をベースに「茶室とは」を私なりに解釈して書かせていただきます。

茶室は日本人の精神性の象徴

「数寄屋」(すきや/Abode of the Unsymmetrical)の数寄は奇数を意味し、左右が対称な西洋の建築の対し、決して均等に二分できない非対称の建築物を意味します。対称が中心から2分割できる完全な形であるのに対し、非対称な建築物は不完全であることを意味します。日本人はあえて不完全を楽しむのです(例えば、雲の形を何かに例えて楽しむ、雲は完全にその形を成しているわけではありません。「見立て」を楽しむ心にも通じます)。西洋の建築物が石やコンクリートを用い永遠を目指したのに対し、茶室は今にも倒れそうな細い柱を用い、藁で屋根をふき、竹で樋をめぐらせます。これはすべてが無常であることを受け入れることです。人もまた自然の一部であり、永遠ではないことを示しています。

「好き家」(すきや/Abode of Fancy)は読んで字のごとく、個人の好みにかなう家。好みとは個人の精神性を実現するということであり、その個人が死ねばその意味も消えてしまう。これも無常を意味するものといえるでしょうか。

「空き家」(すきや/Abode of Vacancy)は空間を含んだ家という意味です。茶室は空間だけを提供し、そこにどのような花を生け、どのような絵あるいは墨蹟を飾るか。どのような道具を用い、どのような客を迎えるか。一服の茶を楽しむためだけに準備され、終われば元の空間のみに戻る。儚い人間の一生と同じですが、この空間は自由自在に中身を変え、個人の要求を無限に満たすことも可能です。

では、どのような茶室を建てますか

わたくしの場合、茶室を建てるといっても、予算も土地も限られていました。露地も含めて100㎡未満で、くずした台形のような形の土地。予算は露地の整備も含めて1200万円未満。

材料の吟味や細かな技術面で、いわゆる「数寄屋づくり」を地元の棟梁にお願いするには無理がありました。専門の数寄屋大工さんを頼ればきっと大きく予算をオーバーしたことでしょう。私にできることは地元の大工さん、地元の造園業者さんで実現可能な「好き屋」で「空き家」を目指すことでした。

幸い夫は建築に深く興味を持っていて、これまでもことあるごとに茶室と呼ばれる建物をみて歩き、あらゆる文献をあたって平面図や細部の設計を担当してくれました。夫が3D図面で幾とおりもの間取りを示してくれたので、私も自分の要望を詳細に伝えることができました。

茶室が完成

退職から2年が経過した2014年、念願の茶室が完成しました。
これからはこの空間をいかに満たしてゆくかが私の課題です。自らが自然に帰すまで、ここで多くの人と茶の湯を楽しんでいきたいと思います。

次回からは、私が生まれ育った深谷市出身の「渋沢栄一」と「茶の湯」の関係について、書くことができればと思います。

なぜ茶道、なぜ茶の湯 その3 茶室の要件

茶室の建築をめざして

若いお弟子さんに「自宅に和室はありますか」と聞くと、「ありません」という答えが返ってきました。実際、私の二人の息子が新築した家の間取りを見ても、どちらにも和室はありません。

ダイニングテーブルで食事をし、リビングソファで寛ぐ(くつろぐ)ことが当たり前になった現代において、和室は使い勝手のよいものではないようです。したがって、私たちお茶を指導する者も「テーブル形式の茶道」「テーブルとイスを使ったおもてなし」などの方法を少しずつ工夫しているのは時流に沿った自然な流れと言えます。

茶室はどのように変わってゆくでしょうか。

利休の茶室は侘びの結晶

16世紀以降、茶室は茶匠(ちゃしょう)と呼ぶべき名人の手で、意匠をこらした建築がなされてきました。国宝として名高い千利休の傑作「待庵」はたった2畳からなる茶室です。これは当時の権力者秀吉に対峙すべく、身分やモノの優劣に依存しない、心の働きだけを追求した利休の茶室であり、侘茶の結晶です。

現代の私たちは、幸福なことに平和と平等を享受できる世の中(様々な紛争、戦争、不平等な社会は依然としてありますが)に生きています。故に、逆に残念なことに、おそらく、2畳の茶室は息苦しく、そこで本当に心を開放できるか、未熟な私には、はなはだ疑問です。(実際に待庵を訪れたことのある方は「思ったより広く感じる」という感想を持たれるようです)

私が求める茶室の役割

漠然と思い描いていた未来の自分は「香が漂う空間で釜鳴りを聞きながら、茶の湯の指導をする」というものでした。なぜ、指導することが必要なのか。それを継承したいからです。継承すべき文化的価値を見出したからです。

躙(にじり)り口の役割:躙り口は茶室の入り口です。80cm四方くらいの大きさで、体を小さく屈め(かがめ)ないと入れません。16世紀、千利休が考案しました。身分の違いによる人と人との差別をなくすため、入り口で武士から刀を取り上げることが目的でした。ひとたび茶室に入れば、亭主と客は全く平等です。主客同一。主観と客観が同時に入れ替わり、互いの思いを受け取ることができる。茶の湯を学ぶことで、そういう訓練ができる。

 

水屋の役割:水屋は点前で使用する道具、茶わんや茶筅(ちゃせん)などを洗う場所です。洗うことを「浄める」といいます。日本には古来、水によって体を浄める禊(みそぎ)という習慣があります。「水に流す」という表現もよく使われますが、自然の最大の恵みである水は人間の体も心もきれいにする浄化作用があると考えられています。茶の湯では清潔であることが尊ばれますが、そこにどのような意味があるか、やはり伝えていかなければと思うのです。

以上のような理由から、現代の私たちが求道的にも、また、心を開放できる空間としても利用できる茶室を実現するとしたら、どのような形がいいのだろうか。様々に悩み、研究し、たどり着いた結果は次のようなものです。

「広さは4畳半」「躙り口」と「水屋」がある。

具体的にどのように建築したか、また次回に。

なぜ茶道、なぜ茶の湯 その2

お茶の先生というと、親の代から引き継いだ茶室や道具がある、という方も多いのではないでしょうか。しかし、私の場合は全く白紙からのスタート。茶道具は全く持っていませんでした。

最初の茶道具

最初に手にした茶道具は茶碗でした。

最後の朝鮮王朝に日本の皇族から嫁ぎ、波乱の生涯を送った李方子(りまさこ)さんの(正確にはその工房の)制作によるものです。

(李方子さんについては、林真理子さんの著作「李王家の縁談」に詳しく書かれていますので、興味のある方はお読みになってみてください。)

1970年頃、父が韓国旅行に行った際、おみやげとして買ってきてくれたものです。
焼き物に詳しかった友人に伴われ、直接方子(まさこ)様にもお会いしたそうです。「日本の方に会えてうれしい」とおっしゃったと聞いています。

この茶碗は、いわゆる彫三島(ほりみしま)です。
三島というと日本古来の焼き物のように思われがちですが、そもそも朝鮮半島で使われていた茶碗の模様が静岡県にある三島神社の暦の文字に似ていたことから、この手の茶碗を三島手(みしまで)と呼ぶようになった、と聞いています。

褐色の土に、勢いのある白の刷毛目が美しく、いかにも茶人の好みそうな作風です。

高校生だった私は、まだその茶碗の美しさを語ることはできませんでしたが、最近になってやっと、美しいなぁと思えるようになりました。

お茶を志す決意の道具

おてんばで向こう見ずな娘を、なんとか人並みの人間に育てようと、お茶の稽古に通わせた母。
そこで出会った尊敬すべき師。

いつしか私はこの道を志すようになっていましたが、「茶道教授」という看板をいただいたところで、何をどうしたらよいのか、20代、30代の頃はまったくわかりませんでした。

それでも粘り強くお茶の道を歩いていくうち、自分の中に形作られていくものがありました。

そうして出会ったのが「畠春斎(はたしゅんさい)作 笙釻付面取釜(しょうかんつきめんとりかま)」です。
富山県高岡市の鋳物工場で出会いました。

義理の父が遺してくれたお金の一部で「何か形の残るものを買ったら」と夫が薦めてくれたのです。

名前にある「笙」は雅楽の楽器のことです。天から降り注ぐ光を表現すると聞いています。

この釜で湯を沸かすと、静かな釜鳴(かまなり)があります。茶の湯では「松風(しょうふう)」と呼びますが、私の耳には「笙の笛」の音であり、天から降り注ぐ光を感じる音です。

この釜と出会い、手元に置くようになってから、いつかこの釜で笙の音を聞いてみたい、それには炉がなくては、炉を切るには茶室がなくては、との思いが強くなり、とうとう後先を顧みず、茶室を建築するに至ったのです。

茶室の建築については、この後のブログでお話しましょう。

なぜ茶道、なぜ茶の湯

茶道教室の茶室の始まり

2014年、自宅敷地の空きスペースに茶室を建てました。
定年まではまだ3年残っていたのですが、退職金のほとんどをつぎ込み、茶室を建ててしまいました。

完成した茶室の様子

なぜ? なぜこんなに茶の湯にのめりこんでしまったのだろう。
自分でも「ばかか」と突っ込みをいれたくなるくらいです。

退職金をヨーロッパ一周豪華クルージングにあてた友人もいます。
その使い道のほうが賢かったのか。

茶室が完成した時、うれしかったというよりは、この箱の中身をこれから一生をかけて創り上げていかなくちゃだな。どうすりゃいいの。という漠然とした不安があったのは事実です。

私は一体何がしたいのだろう。

先輩から、「あなたは若いころから茶室を建ててお茶がしたいと言ってたわね」と言われたことがありました。

そう、確かにそう言った覚えがある。中学生のころに私にお茶を教えてくださったお茶の先生を思い描いていたのでしょう。

若かりし頃の茶道教室の思い出

その先生の稽古に伺うと、茶道教室の玄関を開けたところで白檀が香って、床の間を拝見すると、侘びた花入れには可憐な野の花が。
釜の「松風」を聞きながら点前の指導を受ける。

そう、その世界を創りたかったのです。

茶道教室でのお稽古

さて、まだ自分が創りたかった世界には到達できていませんが、お茶が好きです、という生徒さんが4名。
月に2~3回ずつ稽古に見えています。
現在はその方たちを育てるべく悪戦苦闘の日々。

稽古の前日は教場となる茶室、待合、水屋を雑巾で清め、お茶を刷いておく。
床の間のお軸を決め、掛けておく。

当日は菓子を用意し、花を生け、炭をおこし、湯を沸かす。
露地を掃き清め、炭に香を入れる。

当日の稽古は生徒さん次第。うまくいくときもあれば、なかなか覚えてもらえないなぁ、と落胆もあり。

翌日は灰のお手入れ。
燃え残った炭は火消し壺に。
火箸でつまめないような小さな炭や尉(燃えカス)などを別の消壺に(これはためておいて、後日水を通してきれいに漉し、次に使える灰になります)。

そして次回のために風炉の灰形を整えておく。

形を作った灰の様子

合間の日には炭を洗ったり、灰を漉して乾かしたり、露地の草取りをしたり。

未だ正式な茶事を行えるまでにはなっていません。
これからの課題です。

茶道教室 笙庵(しょうあん)の夢や目標

いつか先生が催してくれた「夜咄」(よばなし)の茶事を親しい友人を招いて行ってみたい、というのが現在の夢です。

なぜこんなに茶の湯にのめり込んでしまったのか、これから徐々にお話してゆければと思っています。

ただ、最初に出会った先生は素敵すぎて、おそらく追いつくことはできないでしょう。

でも一生をかけて追いかけていきます。
もう、亡くなってしまわれましたが、近づけるよう努力してゆくつもりです。

そんな私の茶の湯の日々に、お暇があればお付き合いください。