4月の茶会1

コロナ禍を経て、ようやく各地で茶会が催されるようになりました。

そして、4月は茶会ラッシュ。日曜日ごとに茶会が催されています。

 

<コロナ後の最初の茶会>

4月2日行われた護国寺での茶会に向かう電車内で、隣り合わせた友人から茶の湯に関する疑問をいくつか投げかけられました。それにこたえる中で、私自身にも新しい気づきがあったので、書き留めておきたくなりました。

<茶会に向かう車内での問答>

疑問1 「茶の宗匠が 茶の湯は市中の山居を実現することを目指す とおっしゃるけど、どういうこと?」

私の回答(あくまでも個人の私見。宗匠がたの理想など及びもつきません) 「人間が頭で考えたことを実現しようすると、次第に社会は脳化=都市化する(これは養老孟司先生の著書からエッセンスを拝借)。しかし、人間は生き物で、自然の一部にすぎないから、自然を模した山居に自らを置くことで精神の安定とバランスを保つことができる、のではないかしら。人間は自然の一部だということ、つまりいつか死ぬものであることを忘れず、自然と共生することを理想としているのだと思う」

 

疑問2 「もしそうだとしたら、自然の中でキャンプしてもいいじゃない」

私の回答「おっしゃるとおりね。私は日頃から茶の湯とアウトドアキャンプには共通のものがあると思っている。道具を背負って山や海に向かうか、今ここにそれを実現するかの違いかしら」

 

疑問3「それにしても、あの高価な道具や難しい掛軸は必要?」

私の回答「高価な道具は必要ないと思います。利休道歌に 茶はさびて 心は熱くもてなせよ 道具はいつもあり合わせにせよ また 釜ひとつ あれば茶の湯はなるものを かずの道具を持つはおろかな などの歌があります。これは心の働きをないがしろにして道具に頼るもてなしを戒めているものです。自分の身の丈に合った道具で、心を尽くして茶席を務めたいものです。

しかし、僧侶や宗匠方が揮毫した墨跡や美しい絵画は茶席のテーマを象徴するものでもあり、茶そのものが文化であることを示すものですから、私は必要だと思っています。

目的の茶会はどの席も充実の内容でした。コロナ後、最初の茶会を堪能させていただきました。

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