渋沢栄一のふるさと深谷から その3

<渋沢栄一の茶会>

栄一翁が王子飛鳥山に「無心庵」という茶室を建築したことは前回のブログでふれました。

では、どのような茶会をおこなったのでしょうか。「公益財団法人 渋沢栄一記念財団『デジタル版 渋沢栄一伝記資料』」に公表されている栄一翁の日記を拝読しました。

資料によると、明治32年(1899年)6月19日 新築した茶室において「茶室開きの茶会」を催したのを皮切りに、明治38年11月10日まで、度々茶会を催したことが記されています。

ほとんどは日付と天候、招待客の名前、散会の時間などで終わっており、まれに招待を受けた茶会の内容がある程度です。記載の中に「下略」とあるのは、栄一翁は詳しく書いたかもしれませんが、公表という前提を考慮すると「下略」とせざるをえなかったということかもしれません。

資料の中に、2日間だけ詳しくに書かれている茶会があります。明治32年6月27日と明治38年7月22日の茶会です。この茶会には特別な意味があったと私は解釈しています。

<慶喜公の名誉回復のための茶会>

栄一翁が徳川慶喜公と出会い、幕臣となって産業革命後のヨーロッパの産業経済構造を目の当たりにしたことは、現代の私たちにとって幸運なことでした。この出会いがなければ、今日の日本の経済発展はあり得なかったといっても過言ではないでしょう。

栄一翁は生涯にわたり様々な産業、経済、福祉活動に携わってきましたが、慶喜公が大政奉還によって一線を退き、朝敵としての冤罪(えんざい)をはらされることなく静岡に引きこもっていることを常に気にかけ、残念に思っていました。慶喜公があのとき、薩長と一戦を交えれば国内は大混乱に陥り、外国の侵略を受けることになったかもしれない。なのに、社会の批判や冷遇にひたすら耐え、弁解さえもしない慶喜公をいたわしく思い、なんとか慶喜公の名誉を回復したいと栄一翁は常々考えていたのです。

 

慶喜公の名誉を回復する、その一つの方法が慶喜公の伝記の編纂(へんさん)でしたが、もうひとつは、旧将軍としてふさわしい社会的交際ができるよう、慶喜公が朝廷から爵位を授かることでした。

栄一翁は慶喜公が爵位を受けられるよう動きますが、まずは当時政界に力を持っていた伊藤博文や井上馨に慶喜公を引き合わせることがその第一歩だと考えたのです。

 

<特筆すべき2回の茶会 その1>

特筆すべき2回の茶会のうち1回目は、明治32年(1899)年6月27日に行われています。これは慶喜公と井上馨を引き合わせる茶会でした。

その内容は 津本陽著「小説 渋沢栄一」(幻冬舎文庫)にも紹介されていますが、明治時代の文体そのままではわかりづらいので、私なりにかいつまんでお話しすると以下のようになります。

ー---以下は現代文になおし、わかりやすく解釈した文ですー--

「曇り。午前9時に巣鴨の慶喜公の邸宅に伺い、公としばし世間話をした後、10時に王子製紙会社に向かった。公は製紙会社を一通りご覧になるため、先に製紙会社にご到着になり、藤山雷太氏の案内で工場をご覧になった。

午前11時半、飛鳥山別荘の茶室にて、公と井上伯の来会をお待ちした。井上伯は既に来ていたので、急いで工場に使いをやり、公の臨席をお願いした。

12時、茶席で昼食を召し上がっていただき、宗匠に頼んで茶を点ててもらった。

その後、別室で薄茶を点てた後、眺望台において小宴を開いた。

午後5時、歓談をつくし、散会とした。」

ー---以上となっています。

その後の茶会は、慶喜公の叙爵(じょしゃく=爵位を授けられること)に向けて、有力者を集めた相談の茶会が数度行われ、明治35年(1902年)6月3日、慶喜公は晴れて公爵に叙せられました。

そして、2回目の明治38年7月22日へとつながります。

<特筆すべき2回の茶会 その2>

この茶会には徳川慶喜、伊藤博文、井上馨、桂太郎、益田孝、下条正雄、三井八郎次郎がよばれています。

―――――以下、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』から引用し、わかりやすく現代文に変えて表記します―――――

「7月22日 晴れ、暑い

午前6時に起床、庭内を散歩し、掃除などを指揮す。朝食後、室内の装飾などを指揮す。午前十時より茶席にて手続きを為す。12時、徳川公爵、伊藤候、井上伯、桂伯、益田孝、下条正雄、三井八郎次郎諸氏来会。正午、茶席において昼食を召し上がっていただき、その後月見台において納涼し、3時頃、書院にお招きして金鳳、峻南の2画伯の絵をご覧いただいたあと、酒席を催した。席上、様々な懐旧談があった。ご来客は皆歓談を尽くし夕方の7時に散会とした。」

ー---以上となっています。

茶会なのか、宴会なのかよくわかりません。

(さらに詳しい様子は、ハンドルネームhyoutei-eさんがアメーバブログの中でお書きになっています(「渋沢栄一の茶会」で検索すると「茶の湯こぼれ噺-Ameba」でヒットします)。興味のある方はそちらをご一読ください)

以上のように、栄一翁の茶会はひとえに慶喜公名誉回復ためのものだった、といえるのではないでしょうか。あれほど茶の湯を嫌っていた栄一翁が、自らの財を茶の湯にかけたのもわかる気がします。

栄一翁の茶会については、形式のことなど、茶の湯を知る人には様々な疑問がわきおこることと思いますが、次回以降にまた少しずつ疑問を解決してゆけたらと思います。

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