最新YouTube動画アップしました

<最新YouTtube アップしました>

「笙庵 四季の茶の湯」をシリーズ化してYouTtubeにアップしておりますが、最新版 「笙庵 四季の茶の湯 初冬 Shou-an in early winter」を昨年暮れに作成しましたのでご案内します。https://youtu.be/0opP8qme7q4

 

点前の手順を紹介することを目的としていませんので、少しの誤りはそのままとしています。

今回は点前よりも、季節を楽しむことに重きをおいています。

 

閑に(しずかに)起こる炉中の炭。暗闇(くらやみ)にやわらかな影を落としながら揺れる和ろうそくの灯りを楽しみました。

 

<今の自分にできる茶事をめざして>

映像には残しませんでしたが、ゆったりと日本酒を酌み交わし、亭主(私)の心づくしの料理を味わってもらいました。

正式な茶事における懐石料理は、膳の順序、いただき方(食べ方)にも細かな作法があり、よほどの茶の湯巧者でないと心から楽しめないのではないか、というのが現在の私の率直な心境です。

とはいえ、懐石は今日の和食文化の基礎ともいえるので、学ぶ必要は大いにありと思っています。

今回、撮影をしてくださった映像作家さんが「グリーンアレルギー」であると聞いて、メニューになるべく青物を使わず、本来懐石料理にはタブーとされている獣肉のメニューであるローストビーフを使いました。

茶の湯巧者の方からの批判は甘んじて受ける覚悟で、私にできる茶事をこれからも続け、いつか理想の茶事に到達したいと思っています。

日々の茶 正月編

令和5年は微熱とひどい咳で幕を開けました。幸い、市販のコロナ抗原検査キットの結果は陰性でしたが、はたしてどんな一年となることやら。

 

<結び柳の意味>

私の茶室には新年に結び柳を飾ります。

 

 

この習慣はいくつかの中国の故事に倣って始まったようです。どんな故事をいうのでしうか。

ひとつの説は「中国唐代では旅立つ人を見送るときに、送る者と送らる者が互いに柳の枝を持ち、その枝を結びあって旅の安全を祈ったとされており、千利休はこれに倣って、送別の花として柳を飾ったのが始めである」というものです。

新年は旅立ちのときともとらえられ、新しい年と古い年を結ぶ意味があるのかもしれません。

 

また他の説では「中国では、正月の朝、柳の枝を戸口に挿しておけば百鬼が家に入らないとされている」そうです。

 

柳は春を告げる樹木でもありますし、一緒に生ける椿とともに生命力に満ちた植物ですから、新春にふさわしいですね。

 

<ぶりぶり香合って何>

そして、床の間には「ぶりぶり香合」なるものを飾ります。これも諸説あるようですが、私は次の説をいつも教室の生徒さんに話します。

古来の日本では農耕器具を模した玩具「振振(ぶりぶり)」を正月の祝儀として子供にプレゼントする風習があったそうです。どんな遊びかというと、八角形の木槌で木の毬を打つもので、「振振毬打(ぶりぶりぎっちょう)」と声をかけながら遊んだとのことです。ホッケーのような遊びでしょうか。実際に飾る香合には木槌の柄の部分は無く、本体に美しい絵が施されています。

羽子板(はごいた)や独楽(こま)が現代では遊び道具から祝時の贈り物に変化しているのに似ています。

 

いつの時代も子供の成長を願う心は変わりませんね。

 

今年もよろしくお願いいたします。

渋沢栄一のふるさとからvol.4

<儒教の精神と茶の湯>

久々の更新です。

栄一翁は茶の湯に対して覚めた見方をしていました。これは栄一翁が儒教を信奉していたことと関係があるのかもしれません。というのも、栄一翁の茶の湯に対する姿勢を知ったとき、中国宋時代に残された「三酢図」という寓話を思い出したからです。

儒教を広めた孔子、仏教の釈迦、道教の老子、この三人が酢の入った壺に指を浸してなめました。

孔子は「酸っぱい」といい、釈迦は「苦い」といい、老子は「甘い」といったという話です。

 

実利主義の孔子はそのままを言い当てます。栄一翁もおそらく「酸っぱいものは酸っぱい」という人物っだったに違いありません。栄一翁の著書「論語と算盤」からの引用を繰り返しますが、「自分は言行の規矩として儒教を信仰しているが、民衆には宗教が必要だ。その宗教が形式化しているのは嘆かわしい。茶の湯も同様に、しきたりや旧習にとらわれず、日々新たな改革が必要なのではないか」という栄一翁の考えに私も深く同意します。

 

<深谷市で楽しむ現代の茶の湯>

幕末から明治の茶の湯は、幕府に守られていたものが失われ、大きな転換期を迎えていたのでしょう。栄一翁が目にしていた茶の湯の世界は、その転換期をまだ乗り越えていなっかったといえます。

日々改革が必要だという栄一翁の考えは明治期に限らず、現代にも生かされるべきと思っています。

そのような中、同じ深谷市内で「流派や慣習にとらわれず、自由に茶の湯を楽しみましょう」と茶会に誘ってくださる方があり、先日その方のお茶会に参加してきました。

場所は渋沢栄一の生誕地 深谷市血洗島にある林様のお宅です。

茶室に通じる露地は、打ち水に苔(こけ)が一層美しく、躙り口(にじりぐち)から見える床の間には洗練された花と季節を映す照葉(てりは=紅葉)、禅を極めた老師が揮毫(きごう)した掛け軸が茶室の雰囲気を厳かにしています。

伝統を守った四畳半の茶室で美味しい和菓子と薄茶をいただいた後は、まったく流派の異なる立礼(りゅうれい)席で寛いだお茶を楽しませていただきました。

またこの時期、青淵公園は地域のボランティアが飾り付けたイルミネーションが美しく、茶会の後は公園のイルミネーションを楽しみながら和装で散策もできました。

こうした自由な発想の茶会が地域に広がってゆくことで、栄一翁のいう「日々新たな改革」が実現できるのではと思います。林様には「次回は私の茶室におこしください」とお誘いいたしました。どんな趣向でお楽しみいただこうか、今から楽しみです。

渋沢栄一のふるさと深谷から その3

<渋沢栄一の茶会>

栄一翁が王子飛鳥山に「無心庵」という茶室を建築したことは前回のブログでふれました。

では、どのような茶会をおこなったのでしょうか。「公益財団法人 渋沢栄一記念財団『デジタル版 渋沢栄一伝記資料』」に公表されている栄一翁の日記を拝読しました。

資料によると、明治32年(1899年)6月19日 新築した茶室において「茶室開きの茶会」を催したのを皮切りに、明治38年11月10日まで、度々茶会を催したことが記されています。

ほとんどは日付と天候、招待客の名前、散会の時間などで終わっており、まれに招待を受けた茶会の内容がある程度です。記載の中に「下略」とあるのは、栄一翁は詳しく書いたかもしれませんが、公表という前提を考慮すると「下略」とせざるをえなかったということかもしれません。

資料の中に、2日間だけ詳しくに書かれている茶会があります。明治32年6月27日と明治38年7月22日の茶会です。この茶会には特別な意味があったと私は解釈しています。

<慶喜公の名誉回復のための茶会>

栄一翁が徳川慶喜公と出会い、幕臣となって産業革命後のヨーロッパの産業経済構造を目の当たりにしたことは、現代の私たちにとって幸運なことでした。この出会いがなければ、今日の日本の経済発展はあり得なかったといっても過言ではないでしょう。

栄一翁は生涯にわたり様々な産業、経済、福祉活動に携わってきましたが、慶喜公が大政奉還によって一線を退き、朝敵としての冤罪(えんざい)をはらされることなく静岡に引きこもっていることを常に気にかけ、残念に思っていました。慶喜公があのとき、薩長と一戦を交えれば国内は大混乱に陥り、外国の侵略を受けることになったかもしれない。なのに、社会の批判や冷遇にひたすら耐え、弁解さえもしない慶喜公をいたわしく思い、なんとか慶喜公の名誉を回復したいと栄一翁は常々考えていたのです。

 

慶喜公の名誉を回復する、その一つの方法が慶喜公の伝記の編纂(へんさん)でしたが、もうひとつは、旧将軍としてふさわしい社会的交際ができるよう、慶喜公が朝廷から爵位を授かることでした。

栄一翁は慶喜公が爵位を受けられるよう動きますが、まずは当時政界に力を持っていた伊藤博文や井上馨に慶喜公を引き合わせることがその第一歩だと考えたのです。

 

<特筆すべき2回の茶会 その1>

特筆すべき2回の茶会のうち1回目は、明治32年(1899)年6月27日に行われています。これは慶喜公と井上馨を引き合わせる茶会でした。

その内容は 津本陽著「小説 渋沢栄一」(幻冬舎文庫)にも紹介されていますが、明治時代の文体そのままではわかりづらいので、私なりにかいつまんでお話しすると以下のようになります。

ー---以下は現代文になおし、わかりやすく解釈した文ですー--

「曇り。午前9時に巣鴨の慶喜公の邸宅に伺い、公としばし世間話をした後、10時に王子製紙会社に向かった。公は製紙会社を一通りご覧になるため、先に製紙会社にご到着になり、藤山雷太氏の案内で工場をご覧になった。

午前11時半、飛鳥山別荘の茶室にて、公と井上伯の来会をお待ちした。井上伯は既に来ていたので、急いで工場に使いをやり、公の臨席をお願いした。

12時、茶席で昼食を召し上がっていただき、宗匠に頼んで茶を点ててもらった。

その後、別室で薄茶を点てた後、眺望台において小宴を開いた。

午後5時、歓談をつくし、散会とした。」

ー---以上となっています。

その後の茶会は、慶喜公の叙爵(じょしゃく=爵位を授けられること)に向けて、有力者を集めた相談の茶会が数度行われ、明治35年(1902年)6月3日、慶喜公は晴れて公爵に叙せられました。

そして、2回目の明治38年7月22日へとつながります。

<特筆すべき2回の茶会 その2>

この茶会には徳川慶喜、伊藤博文、井上馨、桂太郎、益田孝、下条正雄、三井八郎次郎がよばれています。

―――――以下、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』から引用し、わかりやすく現代文に変えて表記します―――――

「7月22日 晴れ、暑い

午前6時に起床、庭内を散歩し、掃除などを指揮す。朝食後、室内の装飾などを指揮す。午前十時より茶席にて手続きを為す。12時、徳川公爵、伊藤候、井上伯、桂伯、益田孝、下条正雄、三井八郎次郎諸氏来会。正午、茶席において昼食を召し上がっていただき、その後月見台において納涼し、3時頃、書院にお招きして金鳳、峻南の2画伯の絵をご覧いただいたあと、酒席を催した。席上、様々な懐旧談があった。ご来客は皆歓談を尽くし夕方の7時に散会とした。」

ー---以上となっています。

茶会なのか、宴会なのかよくわかりません。

(さらに詳しい様子は、ハンドルネームhyoutei-eさんがアメーバブログの中でお書きになっています(「渋沢栄一の茶会」で検索すると「茶の湯こぼれ噺-Ameba」でヒットします)。興味のある方はそちらをご一読ください)

以上のように、栄一翁の茶会はひとえに慶喜公名誉回復ためのものだった、といえるのではないでしょうか。あれほど茶の湯を嫌っていた栄一翁が、自らの財を茶の湯にかけたのもわかる気がします。

栄一翁の茶会については、形式のことなど、茶の湯を知る人には様々な疑問がわきおこることと思いますが、次回以降にまた少しずつ疑問を解決してゆけたらと思います。