4月の茶会1

コロナ禍を経て、ようやく各地で茶会が催されるようになりました。

そして、4月は茶会ラッシュ。日曜日ごとに茶会が催されています。

 

<コロナ後の最初の茶会>

4月2日行われた護国寺での茶会に向かう電車内で、隣り合わせた友人から茶の湯に関する疑問をいくつか投げかけられました。それにこたえる中で、私自身にも新しい気づきがあったので、書き留めておきたくなりました。

<茶会に向かう車内での問答>

疑問1 「茶の宗匠が 茶の湯は市中の山居を実現することを目指す とおっしゃるけど、どういうこと?」

私の回答(あくまでも個人の私見。宗匠がたの理想など及びもつきません) 「人間が頭で考えたことを実現しようすると、次第に社会は脳化=都市化する(これは養老孟司先生の著書からエッセンスを拝借)。しかし、人間は生き物で、自然の一部にすぎないから、自然を模した山居に自らを置くことで精神の安定とバランスを保つことができる、のではないかしら。人間は自然の一部だということ、つまりいつか死ぬものであることを忘れず、自然と共生することを理想としているのだと思う」

 

疑問2 「もしそうだとしたら、自然の中でキャンプしてもいいじゃない」

私の回答「おっしゃるとおりね。私は日頃から茶の湯とアウトドアキャンプには共通のものがあると思っている。道具を背負って山や海に向かうか、今ここにそれを実現するかの違いかしら」

 

疑問3「それにしても、あの高価な道具や難しい掛軸は必要?」

私の回答「高価な道具は必要ないと思います。利休道歌に 茶はさびて 心は熱くもてなせよ 道具はいつもあり合わせにせよ また 釜ひとつ あれば茶の湯はなるものを かずの道具を持つはおろかな などの歌があります。これは心の働きをないがしろにして道具に頼るもてなしを戒めているものです。自分の身の丈に合った道具で、心を尽くして茶席を務めたいものです。

しかし、僧侶や宗匠方が揮毫した墨跡や美しい絵画は茶席のテーマを象徴するものでもあり、茶そのものが文化であることを示すものですから、私は必要だと思っています。

目的の茶会はどの席も充実の内容でした。コロナ後、最初の茶会を堪能させていただきました。

最新YouTube動画アップしました

<最新YouTtube アップしました>

「笙庵 四季の茶の湯」をシリーズ化してYouTtubeにアップしておりますが、最新版 「笙庵 四季の茶の湯 初冬 Shou-an in early winter」を昨年暮れに作成しましたのでご案内します。https://youtu.be/0opP8qme7q4

 

点前の手順を紹介することを目的としていませんので、少しの誤りはそのままとしています。

今回は点前よりも、季節を楽しむことに重きをおいています。

 

閑に(しずかに)起こる炉中の炭。暗闇(くらやみ)にやわらかな影を落としながら揺れる和ろうそくの灯りを楽しみました。

 

<今の自分にできる茶事をめざして>

映像には残しませんでしたが、ゆったりと日本酒を酌み交わし、亭主(私)の心づくしの料理を味わってもらいました。

正式な茶事における懐石料理は、膳の順序、いただき方(食べ方)にも細かな作法があり、よほどの茶の湯巧者でないと心から楽しめないのではないか、というのが現在の私の率直な心境です。

とはいえ、懐石は今日の和食文化の基礎ともいえるので、学ぶ必要は大いにありと思っています。

今回、撮影をしてくださった映像作家さんが「グリーンアレルギー」であると聞いて、メニューになるべく青物を使わず、本来懐石料理にはタブーとされている獣肉のメニューであるローストビーフを使いました。

茶の湯巧者の方からの批判は甘んじて受ける覚悟で、私にできる茶事をこれからも続け、いつか理想の茶事に到達したいと思っています。

日々の茶 正月編

令和5年は微熱とひどい咳で幕を開けました。幸い、市販のコロナ抗原検査キットの結果は陰性でしたが、はたしてどんな一年となることやら。

 

<結び柳の意味>

私の茶室には新年に結び柳を飾ります。

 

 

この習慣はいくつかの中国の故事に倣って始まったようです。どんな故事をいうのでしうか。

ひとつの説は「中国唐代では旅立つ人を見送るときに、送る者と送らる者が互いに柳の枝を持ち、その枝を結びあって旅の安全を祈ったとされており、千利休はこれに倣って、送別の花として柳を飾ったのが始めである」というものです。

新年は旅立ちのときともとらえられ、新しい年と古い年を結ぶ意味があるのかもしれません。

 

また他の説では「中国では、正月の朝、柳の枝を戸口に挿しておけば百鬼が家に入らないとされている」そうです。

 

柳は春を告げる樹木でもありますし、一緒に生ける椿とともに生命力に満ちた植物ですから、新春にふさわしいですね。

 

<ぶりぶり香合って何>

そして、床の間には「ぶりぶり香合」なるものを飾ります。これも諸説あるようですが、私は次の説をいつも教室の生徒さんに話します。

古来の日本では農耕器具を模した玩具「振振(ぶりぶり)」を正月の祝儀として子供にプレゼントする風習があったそうです。どんな遊びかというと、八角形の木槌で木の毬を打つもので、「振振毬打(ぶりぶりぎっちょう)」と声をかけながら遊んだとのことです。ホッケーのような遊びでしょうか。実際に飾る香合には木槌の柄の部分は無く、本体に美しい絵が施されています。

羽子板(はごいた)や独楽(こま)が現代では遊び道具から祝時の贈り物に変化しているのに似ています。

 

いつの時代も子供の成長を願う心は変わりませんね。

 

今年もよろしくお願いいたします。

渋沢栄一のふるさとからvol.4

<儒教の精神と茶の湯>

久々の更新です。

栄一翁は茶の湯に対して覚めた見方をしていました。これは栄一翁が儒教を信奉していたことと関係があるのかもしれません。というのも、栄一翁の茶の湯に対する姿勢を知ったとき、中国宋時代に残された「三酢図」という寓話を思い出したからです。

儒教を広めた孔子、仏教の釈迦、道教の老子、この三人が酢の入った壺に指を浸してなめました。

孔子は「酸っぱい」といい、釈迦は「苦い」といい、老子は「甘い」といったという話です。

 

実利主義の孔子はそのままを言い当てます。栄一翁もおそらく「酸っぱいものは酸っぱい」という人物っだったに違いありません。栄一翁の著書「論語と算盤」からの引用を繰り返しますが、「自分は言行の規矩として儒教を信仰しているが、民衆には宗教が必要だ。その宗教が形式化しているのは嘆かわしい。茶の湯も同様に、しきたりや旧習にとらわれず、日々新たな改革が必要なのではないか」という栄一翁の考えに私も深く同意します。

 

<深谷市で楽しむ現代の茶の湯>

幕末から明治の茶の湯は、幕府に守られていたものが失われ、大きな転換期を迎えていたのでしょう。栄一翁が目にしていた茶の湯の世界は、その転換期をまだ乗り越えていなっかったといえます。

日々改革が必要だという栄一翁の考えは明治期に限らず、現代にも生かされるべきと思っています。

そのような中、同じ深谷市内で「流派や慣習にとらわれず、自由に茶の湯を楽しみましょう」と茶会に誘ってくださる方があり、先日その方のお茶会に参加してきました。

場所は渋沢栄一の生誕地 深谷市血洗島にある林様のお宅です。

茶室に通じる露地は、打ち水に苔(こけ)が一層美しく、躙り口(にじりぐち)から見える床の間には洗練された花と季節を映す照葉(てりは=紅葉)、禅を極めた老師が揮毫(きごう)した掛け軸が茶室の雰囲気を厳かにしています。

伝統を守った四畳半の茶室で美味しい和菓子と薄茶をいただいた後は、まったく流派の異なる立礼(りゅうれい)席で寛いだお茶を楽しませていただきました。

またこの時期、青淵公園は地域のボランティアが飾り付けたイルミネーションが美しく、茶会の後は公園のイルミネーションを楽しみながら和装で散策もできました。

こうした自由な発想の茶会が地域に広がってゆくことで、栄一翁のいう「日々新たな改革」が実現できるのではと思います。林様には「次回は私の茶室におこしください」とお誘いいたしました。どんな趣向でお楽しみいただこうか、今から楽しみです。

渋沢栄一のふるさと深谷から その3

<渋沢栄一の茶会>

栄一翁が王子飛鳥山に「無心庵」という茶室を建築したことは前回のブログでふれました。

では、どのような茶会をおこなったのでしょうか。「公益財団法人 渋沢栄一記念財団『デジタル版 渋沢栄一伝記資料』」に公表されている栄一翁の日記を拝読しました。

資料によると、明治32年(1899年)6月19日 新築した茶室において「茶室開きの茶会」を催したのを皮切りに、明治38年11月10日まで、度々茶会を催したことが記されています。

ほとんどは日付と天候、招待客の名前、散会の時間などで終わっており、まれに招待を受けた茶会の内容がある程度です。記載の中に「下略」とあるのは、栄一翁は詳しく書いたかもしれませんが、公表という前提を考慮すると「下略」とせざるをえなかったということかもしれません。

資料の中に、2日間だけ詳しくに書かれている茶会があります。明治32年6月27日と明治38年7月22日の茶会です。この茶会には特別な意味があったと私は解釈しています。

<慶喜公の名誉回復のための茶会>

栄一翁が徳川慶喜公と出会い、幕臣となって産業革命後のヨーロッパの産業経済構造を目の当たりにしたことは、現代の私たちにとって幸運なことでした。この出会いがなければ、今日の日本の経済発展はあり得なかったといっても過言ではないでしょう。

栄一翁は生涯にわたり様々な産業、経済、福祉活動に携わってきましたが、慶喜公が大政奉還によって一線を退き、朝敵としての冤罪(えんざい)をはらされることなく静岡に引きこもっていることを常に気にかけ、残念に思っていました。慶喜公があのとき、薩長と一戦を交えれば国内は大混乱に陥り、外国の侵略を受けることになったかもしれない。なのに、社会の批判や冷遇にひたすら耐え、弁解さえもしない慶喜公をいたわしく思い、なんとか慶喜公の名誉を回復したいと栄一翁は常々考えていたのです。

 

慶喜公の名誉を回復する、その一つの方法が慶喜公の伝記の編纂(へんさん)でしたが、もうひとつは、旧将軍としてふさわしい社会的交際ができるよう、慶喜公が朝廷から爵位を授かることでした。

栄一翁は慶喜公が爵位を受けられるよう動きますが、まずは当時政界に力を持っていた伊藤博文や井上馨に慶喜公を引き合わせることがその第一歩だと考えたのです。

 

<特筆すべき2回の茶会 その1>

特筆すべき2回の茶会のうち1回目は、明治32年(1899)年6月27日に行われています。これは慶喜公と井上馨を引き合わせる茶会でした。

その内容は 津本陽著「小説 渋沢栄一」(幻冬舎文庫)にも紹介されていますが、明治時代の文体そのままではわかりづらいので、私なりにかいつまんでお話しすると以下のようになります。

ー---以下は現代文になおし、わかりやすく解釈した文ですー--

「曇り。午前9時に巣鴨の慶喜公の邸宅に伺い、公としばし世間話をした後、10時に王子製紙会社に向かった。公は製紙会社を一通りご覧になるため、先に製紙会社にご到着になり、藤山雷太氏の案内で工場をご覧になった。

午前11時半、飛鳥山別荘の茶室にて、公と井上伯の来会をお待ちした。井上伯は既に来ていたので、急いで工場に使いをやり、公の臨席をお願いした。

12時、茶席で昼食を召し上がっていただき、宗匠に頼んで茶を点ててもらった。

その後、別室で薄茶を点てた後、眺望台において小宴を開いた。

午後5時、歓談をつくし、散会とした。」

ー---以上となっています。

その後の茶会は、慶喜公の叙爵(じょしゃく=爵位を授けられること)に向けて、有力者を集めた相談の茶会が数度行われ、明治35年(1902年)6月3日、慶喜公は晴れて公爵に叙せられました。

そして、2回目の明治38年7月22日へとつながります。

<特筆すべき2回の茶会 その2>

この茶会には徳川慶喜、伊藤博文、井上馨、桂太郎、益田孝、下条正雄、三井八郎次郎がよばれています。

―――――以下、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』から引用し、わかりやすく現代文に変えて表記します―――――

「7月22日 晴れ、暑い

午前6時に起床、庭内を散歩し、掃除などを指揮す。朝食後、室内の装飾などを指揮す。午前十時より茶席にて手続きを為す。12時、徳川公爵、伊藤候、井上伯、桂伯、益田孝、下条正雄、三井八郎次郎諸氏来会。正午、茶席において昼食を召し上がっていただき、その後月見台において納涼し、3時頃、書院にお招きして金鳳、峻南の2画伯の絵をご覧いただいたあと、酒席を催した。席上、様々な懐旧談があった。ご来客は皆歓談を尽くし夕方の7時に散会とした。」

ー---以上となっています。

茶会なのか、宴会なのかよくわかりません。

(さらに詳しい様子は、ハンドルネームhyoutei-eさんがアメーバブログの中でお書きになっています(「渋沢栄一の茶会」で検索すると「茶の湯こぼれ噺-Ameba」でヒットします)。興味のある方はそちらをご一読ください)

以上のように、栄一翁の茶会はひとえに慶喜公名誉回復ためのものだった、といえるのではないでしょうか。あれほど茶の湯を嫌っていた栄一翁が、自らの財を茶の湯にかけたのもわかる気がします。

栄一翁の茶会については、形式のことなど、茶の湯を知る人には様々な疑問がわきおこることと思いますが、次回以降にまた少しずつ疑問を解決してゆけたらと思います。

渋沢栄一のふるさとから vol.2

栄一翁の時代の茶の湯

栄一翁の生涯については、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」をご覧になった方はよくご存じでしょう。また、同放送を機に栄一翁に関する多くの出版物も世に出回るようになりました。

私が茶の湯を楽しむものとして、ここに書きたいと思ったのは「あの時代に多くの実業家がいわゆる『茶数寄』(ちゃすき)として、茶の湯にまつわる道具や建築物または出版物を後世に残しているのに、栄一翁にはそのようなものがない。なぜだろう」という疑問から端を発しています。

栄一翁が生まれた1840(天保11年)から没した1931(昭和6年)までに活躍した実業家であり『茶数寄』でもある人々は、高橋義雄、増田孝、原三渓、井上馨、根津嘉一郎…多くを数えることができます。また、これらの人々は栄一翁と何らかの接点がある方たちばかりです。

今、私の手元に熊倉功夫氏の著作「近代数寄者の茶の湯」(河原書店)があります。氏はこの中に栄一翁を含む明治の実業家たちの面白いエピソードを記し、近代数寄者の果たした役割をまとめています。ほんの一部を引用させていただきます。

以下引用 (引用元は文末*に記す)***********

「明治30年(1897年)ごろのことらしいが、益田孝は渋沢栄一に呼ばれて浜町の料亭にいた。渋沢栄一が石川県の金沢を視察して帰ってきたので、その視察談をしたいと、福地源一郎や小室信夫などと一緒に益田孝を料亭に呼んだのである。渋沢が金沢を評して、彼の地は非常に茶の湯が盛んで、渋沢が行っても道具を並べて見せるし、茶を出すし、とても悠長なことで話にならない。まずあの茶の湯の風習を打ちこわさなければならぬと力説する。・・・中略
日本の近代化が渋沢栄一のいうように、旧態依然たる金沢の茶の湯を打ちこわすだけだったら、ずいぶん違ったコースを日本は歩むことになっただろう。ところが現実には渋沢の言うようにはならなかった。益田孝のように、現代経営論を一方の耳に聞きながら、その一方では、三百年の歴史ある釜を愛玩しながら茶の湯談にふけっている。明治維新とそれに続く文明開化が否定してきた江戸の遊芸は、近代経営者の感情をしっかりととらえていたのである。・・・中略・・明治の近代化は、西欧的近代化と伝統的価値観の両者にしっかりと両足をおろしていたのである。」

引用ここまで**************

私はこのエピソードを大変面白く拝読し、納得もしました。実際、栄一翁は自らの著作「論語と算盤」の中で、茶の湯について「お茶の流派も流儀といった憾み(うらみ=残念に思うこと)がある。民衆に向かうべきところを教えぬ。これはなんとかせねば」と記しています。これは同著作において、栄一翁が儒教を基本に「趣味」あるいは「宗教」について独自の理論を展開する中での一文なので、このように切り取ってしまうときちんとした理解を得られないかもしれません。栄一翁はあくまでも自分は言行の規矩(げんこうのきく=言行の規範)として儒教を信仰しているが、民衆には宗教が必要だ。その宗教が形式化しているのは嘆かわしい。茶の湯も同様に、しきたりや旧習にとらわれず、日々新たな改革が必要なのではないか、というようなことを言っています。

栄一翁の茶

栄一翁も実際、茶の湯を行っていました。東京都北区王子の飛鳥山には栄一翁の建てた茶室の跡地が保存されています。茶室の銘は「無心庵」。 設計は益田克徳(益田孝の弟)と柏木貨一郎であったそうです。
1899年(明治32)に茶室「無心庵」は落成しましたが、残念ながら第二次大戦で焼失しました。

では栄一翁はどのような茶を行ったのでしょうか、次回へと続きます。

焼失前の無心庵
焼失前の無心庵待合
無心庵跡地に残る灯篭

 

※ 引用 熊倉功夫 「近代数寄者の茶の湯」 (河原書店)

渋沢栄一のふるさとから vol1

私と「渋沢栄一」(なんの関係もありませんが)

2024年からの新しい一万円札の顔となる「渋沢栄一」(以下、「栄一翁」と呼ばせていただきます)。2021年にはNHK大河ドラマも栄一翁を主人公とした「青天を衝け」を上映。以降、私が住む深谷市はメディアで取り上げられる回数も増え、一気に認知度が上がりました。これまでは栄一翁がどのような人物だったか、何をした人かを知る人はあまり多くはなかったのではないでしょうか。ましてや栄一翁と深谷市との関係など、ほとんどの人は知る機会がなかったと思います。

深谷市で生まれ育った私にとって栄一翁は身近な存在でした。一例をあげると、職場だった建物の一室には栄一翁が揮毫(きごう)した「士魂商才」(しこんしょうさい)の扁額が掛けられていました。いまやベストセラーにも名を連ねる栄一翁の著書「論語と算盤」の内容を一行に集約した言葉といえます。

また、少し遡りますが、昭和60年(1985年)4月1日に栄一翁の親族が、生家だった建物を「渋沢国際学園」として、広く海外からの留学生を受け入れる施設として一般に開放しました。同学校法人が解散する平成12年(2000年)までに、47か国679人の留学生を受け入れたそうです。
私は、この施設の一部で行われていた社会人向けの英会話教室に3年以上通っていました。講師はアメリカ人女性でした。集まってくる人たちも様々な社会に属していて、その講師が「This is thinking design school!」(ここは思考をデザインする教室だわ)というほど、英語の勉強を通じて、多種多様な考えを学ぶ場となりました。

深谷にある「渋沢栄一」関連施設等

ここで、現在深谷市内にある栄一翁に関連した施設をご案内しましょう。
中の家(なかんち):栄一翁の生家は現在「中の家(なかんち)」と呼ばれ、埼玉県指定旧跡として深谷市が管理運営を行っています。ここには和装で座る栄一翁のアンドロイドがいます。


現在は耐震補強工事中です。今朝(2022.8.30)の読売新聞埼玉版によれば、工事費用の一部を賄うためクラウドファンディングを行っているそうです。詳しくは下に書かれた「渋沢栄一記念館」におたずねいただくのがよいようです。

渋沢栄一記念館:栄一翁に関する様々な写真や資料が展示されています。また、ここには洋装の栄一翁のアンドロイドがいて、「論語と算盤」について講義をしています。私も講義を聴かせていただきました。楽しかったです。

 

誠之堂・清風亭:国指定重要文化財となっています。もともとは東京都世田谷区にあった第一銀行の保養施設を深谷市起会地内に移築したものです。日本の近代建築史上、大正時代を代表する建物として高い評価を受けているそうです。様々な事情で取り壊される予定だったものを深谷市が平成11年に復元し建築したものです。

その他、関連施設を紹介した地図を「渋沢栄一記念館」の地図をお借りしてここに紹介いたします。

渋沢栄一と茶の湯

さて、私が書きたいのは、栄一翁と茶の湯の関係です。現在のところ、栄一翁と茶の湯の関りを知る手掛かりは多くありません。次回以降、少しずつ資料を確認し、自らの足で可能な限りのことを調べて綴っていきたいと思います。

なぜ茶道、なぜ茶室 その4 茶室の建築

ここで改めて、茶室とは

茶室は「数寄屋」(すきや)とも呼ばれます(牛丼店ではありません)。「好き家」(すきや)あるいは「空き家」(すきや あきや ではありません)と書くともいわれています。岡倉天心は著書「The Book of Tea」(「茶の本」)で、東洋的な哲学を茶の湯の成り立ちを通して西欧人に紹介していますが、その中で茶室についても詳しく紹介しています。ここで改めてその内容をベースに「茶室とは」を私なりに解釈して書かせていただきます。

茶室は日本人の精神性の象徴

「数寄屋」(すきや/Abode of the Unsymmetrical)の数寄は奇数を意味し、左右が対称な西洋の建築の対し、決して均等に二分できない非対称の建築物を意味します。対称が中心から2分割できる完全な形であるのに対し、非対称な建築物は不完全であることを意味します。日本人はあえて不完全を楽しむのです(例えば、雲の形を何かに例えて楽しむ、雲は完全にその形を成しているわけではありません。「見立て」を楽しむ心にも通じます)。西洋の建築物が石やコンクリートを用い永遠を目指したのに対し、茶室は今にも倒れそうな細い柱を用い、藁で屋根をふき、竹で樋をめぐらせます。これはすべてが無常であることを受け入れることです。人もまた自然の一部であり、永遠ではないことを示しています。

「好き家」(すきや/Abode of Fancy)は読んで字のごとく、個人の好みにかなう家。好みとは個人の精神性を実現するということであり、その個人が死ねばその意味も消えてしまう。これも無常を意味するものといえるでしょうか。

「空き家」(すきや/Abode of Vacancy)は空間を含んだ家という意味です。茶室は空間だけを提供し、そこにどのような花を生け、どのような絵あるいは墨蹟を飾るか。どのような道具を用い、どのような客を迎えるか。一服の茶を楽しむためだけに準備され、終われば元の空間のみに戻る。儚い人間の一生と同じですが、この空間は自由自在に中身を変え、個人の要求を無限に満たすことも可能です。

では、どのような茶室を建てますか

わたくしの場合、茶室を建てるといっても、予算も土地も限られていました。露地も含めて100㎡未満で、くずした台形のような形の土地。予算は露地の整備も含めて1200万円未満。

材料の吟味や細かな技術面で、いわゆる「数寄屋づくり」を地元の棟梁にお願いするには無理がありました。専門の数寄屋大工さんを頼ればきっと大きく予算をオーバーしたことでしょう。私にできることは地元の大工さん、地元の造園業者さんで実現可能な「好き屋」で「空き家」を目指すことでした。

幸い夫は建築に深く興味を持っていて、これまでもことあるごとに茶室と呼ばれる建物をみて歩き、あらゆる文献をあたって平面図や細部の設計を担当してくれました。夫が3D図面で幾とおりもの間取りを示してくれたので、私も自分の要望を詳細に伝えることができました。

茶室が完成

退職から2年が経過した2014年、念願の茶室が完成しました。
これからはこの空間をいかに満たしてゆくかが私の課題です。自らが自然に帰すまで、ここで多くの人と茶の湯を楽しんでいきたいと思います。

次回からは、私が生まれ育った深谷市出身の「渋沢栄一」と「茶の湯」の関係について、書くことができればと思います。

なぜ茶道、なぜ茶の湯 その3 茶室の要件

茶室の建築をめざして

若いお弟子さんに「自宅に和室はありますか」と聞くと、「ありません」という答えが返ってきました。実際、私の二人の息子が新築した家の間取りを見ても、どちらにも和室はありません。

ダイニングテーブルで食事をし、リビングソファで寛ぐ(くつろぐ)ことが当たり前になった現代において、和室は使い勝手のよいものではないようです。したがって、私たちお茶を指導する者も「テーブル形式の茶道」「テーブルとイスを使ったおもてなし」などの方法を少しずつ工夫しているのは時流に沿った自然な流れと言えます。

茶室はどのように変わってゆくでしょうか。

利休の茶室は侘びの結晶

16世紀以降、茶室は茶匠(ちゃしょう)と呼ぶべき名人の手で、意匠をこらした建築がなされてきました。国宝として名高い千利休の傑作「待庵」はたった2畳からなる茶室です。これは当時の権力者秀吉に対峙すべく、身分やモノの優劣に依存しない、心の働きだけを追求した利休の茶室であり、侘茶の結晶です。

現代の私たちは、幸福なことに平和と平等を享受できる世の中(様々な紛争、戦争、不平等な社会は依然としてありますが)に生きています。故に、逆に残念なことに、おそらく、2畳の茶室は息苦しく、そこで本当に心を開放できるか、未熟な私には、はなはだ疑問です。(実際に待庵を訪れたことのある方は「思ったより広く感じる」という感想を持たれるようです)

私が求める茶室の役割

漠然と思い描いていた未来の自分は「香が漂う空間で釜鳴りを聞きながら、茶の湯の指導をする」というものでした。なぜ、指導することが必要なのか。それを継承したいからです。継承すべき文化的価値を見出したからです。

躙(にじり)り口の役割:躙り口は茶室の入り口です。80cm四方くらいの大きさで、体を小さく屈め(かがめ)ないと入れません。16世紀、千利休が考案しました。身分の違いによる人と人との差別をなくすため、入り口で武士から刀を取り上げることが目的でした。ひとたび茶室に入れば、亭主と客は全く平等です。主客同一。主観と客観が同時に入れ替わり、互いの思いを受け取ることができる。茶の湯を学ぶことで、そういう訓練ができる。

 

水屋の役割:水屋は点前で使用する道具、茶わんや茶筅(ちゃせん)などを洗う場所です。洗うことを「浄める」といいます。日本には古来、水によって体を浄める禊(みそぎ)という習慣があります。「水に流す」という表現もよく使われますが、自然の最大の恵みである水は人間の体も心もきれいにする浄化作用があると考えられています。茶の湯では清潔であることが尊ばれますが、そこにどのような意味があるか、やはり伝えていかなければと思うのです。

以上のような理由から、現代の私たちが求道的にも、また、心を開放できる空間としても利用できる茶室を実現するとしたら、どのような形がいいのだろうか。様々に悩み、研究し、たどり着いた結果は次のようなものです。

「広さは4畳半」「躙り口」と「水屋」がある。

具体的にどのように建築したか、また次回に。

なぜ茶道、なぜ茶の湯 その2

お茶の先生というと、親の代から引き継いだ茶室や道具がある、という方も多いのではないでしょうか。しかし、私の場合は全く白紙からのスタート。茶道具は全く持っていませんでした。

最初の茶道具

最初に手にした茶道具は茶碗でした。

最後の朝鮮王朝に日本の皇族から嫁ぎ、波乱の生涯を送った李方子(りまさこ)さんの(正確にはその工房の)制作によるものです。

(李方子さんについては、林真理子さんの著作「李王家の縁談」に詳しく書かれていますので、興味のある方はお読みになってみてください。)

1970年頃、父が韓国旅行に行った際、おみやげとして買ってきてくれたものです。
焼き物に詳しかった友人に伴われ、直接方子(まさこ)様にもお会いしたそうです。「日本の方に会えてうれしい」とおっしゃったと聞いています。

この茶碗は、いわゆる彫三島(ほりみしま)です。
三島というと日本古来の焼き物のように思われがちですが、そもそも朝鮮半島で使われていた茶碗の模様が静岡県にある三島神社の暦の文字に似ていたことから、この手の茶碗を三島手(みしまで)と呼ぶようになった、と聞いています。

褐色の土に、勢いのある白の刷毛目が美しく、いかにも茶人の好みそうな作風です。

高校生だった私は、まだその茶碗の美しさを語ることはできませんでしたが、最近になってやっと、美しいなぁと思えるようになりました。

お茶を志す決意の道具

おてんばで向こう見ずな娘を、なんとか人並みの人間に育てようと、お茶の稽古に通わせた母。
そこで出会った尊敬すべき師。

いつしか私はこの道を志すようになっていましたが、「茶道教授」という看板をいただいたところで、何をどうしたらよいのか、20代、30代の頃はまったくわかりませんでした。

それでも粘り強くお茶の道を歩いていくうち、自分の中に形作られていくものがありました。

そうして出会ったのが「畠春斎(はたしゅんさい)作 笙釻付面取釜(しょうかんつきめんとりかま)」です。
富山県高岡市の鋳物工場で出会いました。

義理の父が遺してくれたお金の一部で「何か形の残るものを買ったら」と夫が薦めてくれたのです。

名前にある「笙」は雅楽の楽器のことです。天から降り注ぐ光を表現すると聞いています。

この釜で湯を沸かすと、静かな釜鳴(かまなり)があります。茶の湯では「松風(しょうふう)」と呼びますが、私の耳には「笙の笛」の音であり、天から降り注ぐ光を感じる音です。

この釜と出会い、手元に置くようになってから、いつかこの釜で笙の音を聞いてみたい、それには炉がなくては、炉を切るには茶室がなくては、との思いが強くなり、とうとう後先を顧みず、茶室を建築するに至ったのです。

茶室の建築については、この後のブログでお話しましょう。